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温故知新~熊本に控訴審が~

 熊本地震により、熊本城の石垣は崩れ去ったが、赤レンガは崩れなかった。熊本地裁の赤レンガ(旧本庁建物)は、現在は、資料館とされているこの赤レンガの中には、かつて昭和3年に竣工した陪審法廷が設けてあり、現在の庁舎に以降する直前の昭和48年3月には、水俣病第1次訴訟判決が言い渡された。
 
 熊本県弁護士会史によれば、明治41年12月22日、「当時の最新技術の粋を集めて造られた赤煉瓦造り、一部二階建てのドイツルネサンス風の優雅にして堅固な建物」として竣工したとある。大都市の裁判所では、このような赤レンガ作りは姿を消す中、穏やかさの中に趣と威厳ある佇まいを現在まで残している。
 
 ところで、現在、熊本、福岡、長崎、佐賀、大分の大部分の控訴事件は、すべて福岡城址にある福岡高等裁判所が管轄するところであるが、明治期、この威風堂々の赤レンガが建てられた頃、当時、長崎にあった控訴院(現在の高等裁判所)を熊本に誘致する動きがあったことは、あまり知られていない事実である。
 
 熊本県弁護士会は、明治26年、旧弁護士法の施行とともに、15名の会員で産声を上げたが、その第一声として、長崎控訴院を熊本に誘致したい旨の声を上げた。誠に華々しい誕生である。当時、長崎県を除く他の九州各県の在野法曹はこれに賛同して(当時までは福岡県も賛同していた)、衆議院に請願したという。

 しかし、これが実現しないままに時が流れ、明治42年に赤レンガの庁舎が完成した後の翌43年、「長崎控訴院ヲ熊本ニ移轉(いてん)スル建議書」を司法大臣に提出した。このとき、大分、宮崎、鹿児島は賛成したが、福岡や佐賀は、福岡市、佐賀市への誘致を主張し、当の長崎は移転の必要性なしと主張し、結局、熊本移転は実現しなかった。

 その後、福岡県の大運動、長崎県の猛烈な存置運動と熊本の息長い誘致運動の三つ巴戦となって火花を散らし、混沌とした状況のまま日中戦争に突入した後、終戦直後の昭和20年8月1日付け勅令第443号により、時の政府は福岡への移転を決定した。かくて、熊本県弁護士会の長年の夢は呆気ない幕切れとなったのである。当時を知る故林靖夫弁護士は、「もう一歩というところで渋滞したのは、熊本県市の政治力、経済力がもう一歩足らなかったようである」と評している(熊本県弁護士会史第1版)。

 もし、明治期に熊本高等裁判所が実現していれば、この赤レンガは現在まで残っていたであろうか。それは分からないが、熊本県弁護士会を創設した15名の諸先輩方も、我が会の弁護士数が270名にもなるとは思いもよらなかったであろう。

 時代は流れても、この赤レンガのように、穏やかに、力強く、ここ熊本で弁護士の本分を全うしたいものである。
by itai-shunsuke | 2017-02-14 17:20

むかしの写真です


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